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2019年11月11日

イオン液体と物性予測技術

サイエンスソリューション部 羽田 城司

はじめに

2014年、地球周回軌道上の「ほどよし3号」において新型リチウム二次電池のテストが行われ、成功裏に終了した。新型電池は、揮発成分・引火成分を一切含まず、簡素なラミネートの外装だけで、真空の宇宙環境でも安定して使用可能という優れた性能をもつ。この優秀な特性は、電解質として“イオン液体”を用いることで実現された。

イオン液体は、既存物質にない特異な性質を持ち、様々な産業応用へ向けた開発が進められている。一方で、イオン液体開発には障壁も存在し、その一つが物性予測の難しさである。本コラムでは、イオン液体について紹介し、その物性予測に適用可能な技術を展望する。

イオン液体とは

イオン液体は、幅広い温度範囲で液体として存在することのできる塩であり、陽イオン(カチオン)と陰イオン(アニオン)のみからなる液体である。一般に100℃以下の融点を有する塩がイオン液体と定義され*1、特に室温付近に融点を有するイオン液体が研究の中心となっている。電流を流すことができる、幅広い温度域(-30℃から300℃以下程度)で液体を維持する、不揮発性、不燃性、水とも有機溶媒とも異なる溶解性を示すなど特異な性質を持つ。

前述の「ほどよし3号」においてテストされた新型リチウム二次電池は、電気伝導性があり、不揮発性で、難燃性という既存の液体ではおよそ実現が困難なイオン液体特有の性質を利用したものである。

多彩な応用可能性

多様な用途に適用できる可能性が着目され、反応溶媒、潤滑材、熱流体、電解質、触媒、分離膜、アクチュエーター、センサー、抽出蒸留、ガス分離、セルロース可溶化、放射性廃棄物処理など幅広い分野への活用が提案されている。電気二重層キャパシタ「N’s CAP®」(日清紡ホールディングス株式会社、日本無線株式会社)、イオン液体リチウム二次電池(関西大学、第一工業製薬株式会社、エレクセル株式会社)などすでに実用化された例もある。蒸気圧が極めて低いことから蒸留精製が難しく、純度の高いイオン液体を大量に得ることには困難があったが、近年では量産化技術の確立も進み、研究開発段階から産業応用段階への移行が期待されている。

カチオンとアニオンの構造や組み合わせにより自由に分子を設計することができ、目的により様々な物性を付与できることがイオン液体の優れた特徴の一つである。しかし、イオン液体の各物性と分子構造との相関は未解明な部分が多い。分子構造から物性を十分に予測できないことが応用開発における障壁の一つとなっている。

機械学習による物性予測

材料物性予測には定量的構造物性相関(QSPR)などの従来型の機械学習手法が用いられている。機械学習によって実用的なイオン液体の物性予測行うためには、格段の予測性能向上が必要である。近年、データ科学領域において深層学習などの新しい機械学習手法の有効性が示され広がりを見せており、イオン液体の物性予測についても深層学習の適用が有望である。

機械学習を活用するためには大量の教師データが必要となる。幸いイオン液体については、アメリカ国立標準技術研究所(NIST)により、実験による物性データベース*2が整備されている。2019年10月現在、1,800を超えるイオン液体について、密度、粘性、熱容量、融点、熱伝導率、電気伝導率など物性が収められており、このデータベースを教師データとして利用することで機械学習による物性予測モデルが構築可能である。

分子シミュレーションの物性予測への活用

対象とする物性によっては実験データベースが十分に整備されていないことがある。そのような場合は、分子シミュレーションによる物性予測が有力である。分子構造をモデリングし、原子間に古典力学・量子力学に基づくポテンシャルを設定し、多体問題として運動方程式を解く。その計算結果を解析することで多様な物性を算出することができる。ただし、分子シミュレーションによる物性予測は機械学習に比べて一般に計算コストが大きく、相応の計算資源と時間が求められることに注意を要する。

分子シミュレーションは、物性予測に有用なだけでなく、物質の物性理解に本質的に重要である。例えば、古典分子動力学法を用いた伝熱シミュレーションでは、物質を構成するどのような分子内・分子間相互作用が熱伝導率に寄与しているのかを直接的に解析可能であり、物性と構造との相関に関する重要な知見が得られる。

分子シミュレーションと機械学習の融合

機械学習と分子シミュレーションは相補的な使い方が可能である。実験データ不足により、有用な機械学習による物性予測モデルが構築できない場合には、分子シミュレーションで物性予測を行い、その結果を教師データとして用いることが有望な手段となる。一方、計算に長時間を有する分子シミュレーションは対象物質の絞り込みが必要な場合があり、機械学習モデルよる候補物質の仮想スクリーニングが有望な手段となる。

相補的な使い方からさらに一歩踏み込み、機械学習と分子シミュレーションを“融合”することで、さらに強力な物性予測技術を得られる可能性がある。既存の分子シミュレーション技術には、(1)量子力学に基づいた原子間ポテンシャルを用いると計算精度は高いものの計算時間が長く、(2)古典力学に基づいた原子間ポテンシャルを用いると計算時間は短いものの計算精度が低い、というトレードオフがある。そこで、ニューラルネットワークで量子力学計算の結果を再現する原子間ポテンシャルを作成し、この限界を突破することが試みられている。ニューラルネットワークを用いた原子間ポテンシャルによって、分子シミュレーションの計算精度向上と計算時間短縮が同時に達成されることが期待されている。

おわりに

イオン液体はその特異な性質を利用した幅広い分野への活用が提案され、量産技術の確立も進み、研究段階から産業応用段階への移行が期待されている。一方で、イオン液体の物性を十分に予測することは難しく、応用開発における障壁の一つとなっている。物性予測という課題に対して、機械学習と分子シミュレーションが有効な技術である。機械学習と分子シミュレーションは相補的に使用することでさらにその力を発揮する。さらに、相補的な使用に留まらず、機械学習と分子シミュレーションを“融合”させることで、有力な新技術の開発が試みられている。当社でも、機械学習と分子シミュレーションの相補的活用、および、機械学習と分子シミュレーションの融合モデル化について技術開発を行っている。今、機械学習と分子シミュレーションがイオン液体の最前線を切り拓く。

  • *N’s CAPは日清紡ホールディングス株式会社の登録商標です。