みずほリサーチ&テクノロジーズ 経営・ITコンサルティング部 上席主任コンサルタント 新田 仁
- *本稿は、『研究開発リーダー』2021年7月号(発行:技術情報協会)に掲載されたものを、同編集部の承諾のもと掲載しております。
はじめに
近年、ビジネスのあらゆるシーンにおいてデジタルトランスフォーメーションの波が押し寄せている。これは、ビッグデータや情報技術を活用して、業務の効率化や、付加価値の高い製品・サービス、ビジネスモデルの創出に繋げていくものであるが、熟練技術者の経験やノウハウ、すり合わせが重視されるものづくりの現場においても例外ではない。特に材料・素材分野においては、革新的な機能を有する新材料・新素材を効率的に探索するため、マテリアルズインフォマティクス(MI)と呼ばれる材料科学と情報科学の融合分野への各国政府の研究投資が進められてきており、データ活用に対する機運が高まってきている。
本稿では、MIに関するこれまでの取り組みを紹介した上で、今後の課題や展望について述べたい。
自然科学とインフォマティクスの融合はMIが出現する以前からあった
情報科学や情報学を意味する“インフォマティクス”が付く研究分野で、多くの人の頭に最初に浮かぶものは、バイオインフォマティクスであろう。その始まりはMIよりも早く、1990年から開始されたヒトゲノム計画をきっかけとしてDNA解析技術が進展したことにより、膨大なデータが生成・蓄積されバイオインフォマティクスは急速に発展した。近年では、学術研究だけでなく、医療や創薬、農業等の産業応用にも広く波及していることもあり、世の中に広く認知されている。
これに対して“マテリアル”つまり物質・材料とインフォマティクスの融合は、まず化合物の物性や反応を取り扱う化学分野で進んだ。これは、1990年頃からコンビナトリアルケミストリーと呼ばれる組み合わせを利用して多種類の化合物群を同時並列的に合成・評価する研究への取り組みが活発化し、膨大な化合物の情報を処理する必要性がでてきたことによる。1998年にFrank K. Brownによってケモインフォマティクスと呼ばれる概念が提唱され、化学分野において問題解決を図るための手段として発展している。
MIの火付け役となったMaterial Genome Initiative
MIの本格的な取り組みは、ケモインフォマティクスの提唱から十余年、2011年に米国で発表されたMaterial Genome Initiative(MGI)に端を発することになる。MGIはバイオインフォマティクスに革新をもたらしたヒトゲノム計画になぞらえ、新材料の発見から実用化までの期間を半分に短縮にするという目標のもと、2016年までに約5億ドルが投資された。「第一原理計算を主体とした物質の構想や物性に関するデータによる物質・材料の探索」「コンビナトリアル合成・計測によるハイスループットデータ収集」「統合計算材料工学(様々なスケールの計算モデルの結合、加工プロセスや組織構造の相関に関するデータの統合)」の3つの方向性での研究が行われ、材料データインフラ(計算ツール、実験ツール、材料データベース)が整備された。米国では今のところMGIの後継的な政策は打ち出されていないが、各省庁や大学での取り組みが継続している。例えば、米国標準技術研究所が2013年に立ち上げたCenter for Hierarchical Materials and Design (CHiMaD) では、ノースウェスタン大学やシカゴ大学が中心となり、次世代の計算ツールや材料データベース、実験技術の開発に焦点をあてた研究を行ってきたが、2019年から5年間にわたり研究を継続することが決定されている。また、Materials Data Facility*1やMaterials Commons*2などの材料データインフラのサービス運用も開始されている。材料データインフラの接続と統合に焦点を当てたコミュニティネットワークであるMaterials Research Data Alliance*3を通して、オープンアクセス・相互運用可能な材料データインフラの構築に向けた取り組みもすすめられている。
MGIの影響を受け、世界の主要各国でもMIに対する研究投資が進められた。例えば、欧州では2015年からEuropean Center of Excellenceの一環としてNovel Materials Discovery (NOMAD、2015年~2018年) が実施され、従来の最先端スパコンでも解くことができなかった大規模なスケールに対応可能な第一原理計算手法やビッグデータ解析の開発、材料データインフラの構築などが行われた。NOMADでの成果の一部は、2018年よりドイツやオランダを中心とする研究機関コンソーシアムであるFAIR Data Infrastructure for Physics, Chemistry, Material Science, and Astronomy e. V(FAIR-DI)に引き継がれ、生データを登録・管理するレポジトリサービスの他、アーカイブ(正規化データ)、知識データ、ビッグデータ解析、可視化の5つをサービスの柱として発展している。中国では、2016年3月に発表された科学技術イノベーション第13次5カ年計画の重点技術の一つである「新材料技術」において「マテリアルズゲノム」を取り上げており、米国と同様に新材料の開発期間/コストの半減を目標に掲げている。更に、2016年から国家重点研究開発計画の一つとして「マテリアルズゲノム工学のキーテクノロジーと支援プラットフォーム」(2016年~2020年)を推進し、中国科学院、北京技科大学、上海大学、上海交通大学などを中心に拠点が構築されている。また、韓国でも2015年から10年計画でCreative Material Discovery Projectを実施している。
日本においても文部科学省の新学術領域研究「ナノ構造情報のフロンティア開拓 - 材料科学の新展開」(2013年度~2017年度)での「材料科学と情報科学の調和」を皮切りに、JST「情報統合型物質・材料開発イニシアティブ」(2015年度~2019年度)やNEDO「超先端材料超高速開発基盤技術プロジェクト」(2016年度~2021年度)、内閣府戦略的イノベーション創造プログラム(第2期)「統合型材料開発システムによるマテリアル革命」(2018年度~2022年度)など、切れ目のない投資により材料科学と情報科学の研究者の連携推進やMIに関する研究拠点の整備、材料データの蓄積や機械学習・データマイニングを用いた効率的な材料探索の手法、逆問題MIシステム(目的とする材料の性能を入力として、それを実現するための最適な材料やプロセスを出力するシステム)の開発など、今後のMIの普及拡大につながる様々な取り組みが行われている。また、現在、政府の統合イノベーション戦略推進会議において決定した「マテリアル革新力強化戦略」*4では、産学官が取り組むべきアクションプランの一つとして材料データと製造技術を活用したデータ駆動型研究開発の促進が掲げられ、先端共用設備などで蓄積してきた良質な材料データの収集・活用やそのノウハウ・経験などの技術蓄積、データサイエンスの融合による製造プロセスの高度化などの方策が示されている。
民間企業でもすすむMIへの取り組み
これまでに述べたようにMIは各国政府主導で投資が進められてきたが、近年では民間企業でも活用が進んでいる。実験やシミュレーションで得られた材料の構造や組成、物性値等のデータを機械学習やAIなどを活用して分析し、新規材料探索を効率的に行う事例がでてきている。また、材料メーカーとITベンダー企業との協業も発表されるなど企業間連携も進みつつある。表1に取り組み例を紹介する。
素材産業においても、他の産業分野の例に漏れず、ユーザニーズの多様化や世界的な競争環境の激化への対応のため、一層の研究開発の高度化・効率化が求められている。開発期間の短縮や開発コストの低減につながるMIは、今後益々必要とされていくであろう。
表1 民間企業におけるマテリアルズインフォマティクスの取り組み例*5
企業名 | 取り組み内容 |
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横浜ゴム |
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東洋タイヤ |
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三菱ケミカル |
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キシダ化学 |
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日立製作所 |
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NEC |
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MIの活用拡大に向けて
今後、各国政府の投資により環境整備が進むにつれてMIを活用する機運が高まってくると期待されるが、材料開発現場で広く利用されていく上では乗り越えるべき課題も存在する。
課題の一つとして、最終的に得たい材料の特性(目的変数)に多くの因子(説明変数)が影響するため、データ解析を具体的な処方箋につなげることが難しいことが挙げられる。MIにおける説明変数としては、組成やミクロからマクロまでの各階層での構造、欠陥や不純物のプロファイル、製造条件等、様々なものが考えられる。したがって、どの説明変数が目的変数に影響しているのかを見出しにくい。また、目的変数も一つでないことも問題を複雑にする。研究開発ではトレードオフの関係にある多数の目的変数を最適化していく必要があるが、現状のMIではそのようなことを行えるレベルにはない。
また高品質な材料データの収集・蓄積という課題もある。材料開発においては、複数の説明変数が目的変数に影響するため、目的変数と説明変数の関連性を見出すためには大量なデータセットが必要となるが、各国で整備されているデータベースでも十分なデータ量が確保できているとは言い難い。データ収集や整理等の作業に多大な時間と労力を要することから、研究機関や産業界が生成した材料データを効率的に収集・蓄積する仕組みを構築していく必要があろう。その際、材料データの品質をどのようにして担保するのか、データフォーマットの標準化をどのようにするか、企業等が有するデータをどこまでオープンにするのかという議論も必要となる。
以上のような課題もあり、MIは現状では一部の材料特性の向上につながる条件の絞り込みに利用されている程度である。絞り込んだ条件の妥当性を検証するためには理論や実験、シミュレーションなど、これまでの材料開発で用いてきた手法との連携が必要である。また、耐久性や量産性・コストを含めて実用に耐え得る材料に仕上げていく上では、製品全体での最適化のための調整や試行錯誤を繰り返す摺り合わせが求められる。
現状のMIの技術水準では、材料開発において適用できる範囲は限定的であり、研究開発現場の課題解決に直接繋がらないケースもあると思う。しかしながら、かつて数値シミュレーションが期待と効用の乖離が大きかった黎明期を乗り越えて、今や必要不可欠なツールとなってきたように、将来的にはMIも研究開発現場で重要な役割を果たすようになるであろう。MIの活用ノウハウをいち早く蓄積するためにも、研究開発の中にMIを少しずつ取り入れていくことが求められる。
- *1)CHiMaDの一部として開発
- *2)エネルギー省の支援の下、ミシガン大学が開発
- *3)2019年に設立されたMaterials Research Data Councilが運営する
- *4)内閣府 科学技術・イノベーション マテリアル戦略
- *5)各社プレスリリースをもとにみずほリサーチ&テクノロジーズが作成
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2021年3月5日