ページの先頭です

品質向上に向けた取り組み

よりよい製品設計のための工学シミュレーションの活用

2019年7月10日 サイエンスソリューション部 小坂部 和也

はじめに

製造業においては、工学シミュレーション、すなわちコンピュータを活用したエンジニアリング支援(Computer Aided Engineering, CAE)が重要な役割を果たしている。

万が一、不適切なシミュレーション結果を踏まえて製品が設計されてしまうと、その製品のユーザーに何らかの不都合が生じることになる。また、結果として製品開発元の市場の評価が下がったり、同製品の再設計等が生じたりするなど、その影響が広範囲に及んでしまう可能性がある。

本コラムでは、工学シミュレーションを正しく製品設計へ活用するための品質向上に向けた取り組みを紹介する。

製造業における工学シミュレーションの活用

以前は製品の図面を紙ベースで作成し、管理、運用するのが一般的であったが、近年はほぼデジタル化されており、CAD(Computer Aided Design, コンピュータを用いた設計)ソフトウェアを使った設計と、電子ファイルでの管理、運用に置き換わっている。製品開発に関するノウハウについては、依然として勘と経験が重要であるものの、熟練者の高齢化が進む中で、製造業の各社はデジタル化や見える化への対応に苦労している。特に「なぜその製品の性能が高いのか(あるいは、期待を下回る性能であるのか)」を理解して次の製品開発に活用したい場合や、過去の経験が役立たない、あるいは全く異なる製品を設計するような場合は、シミュレーションが大変有効である。ここで言うシミュレーションとは、簡単に言えば、パソコンの中で科学の実験を行うことである。主に構造解析(製品そのものが壊れないか)や流体解析(製品の中の水や空気がどう流れるか)の結果により設計等のエンジニアリングを支援することを工学シミュレーション、あるいはCAE(Computer Aided Engineering)という。

構造解析や流体解析等の工学シミュレーションの歴史は古く、1970年代初頭には汎用のソフトウェアが市場に出始め、以降拡大が続いている。一般的に、ソフトウェアの使い方はもちろん、どのような理論に基づいて解析が行われているかを把握していないと、正しい結果が得られないため、工学シミュレーションの難易度は高い。このため、製造業では設計部署とは別にCAE専門の部署を設けることが多く、設計部署ではCADソフトウェアを用いた設計、CAE部署ではCAEソフトウェアを用いた工学シミュレーションがそれぞれ行われていた。しかし、ここ10年くらいは、設計用のCADソフトウェアにCAEの機能の一部が組み込まれたり、CADソフトウェアで編集するCADデータとCAEソフトウェアで使用するCADデータを共通化したりすることで、設計と工学シミュレーションの垣根がなくなりつつある。また、CAEソフトウェアを用いて結果が得られるまでの時間についても、従来のソフトでは解析難易度に応じて数分から数日以上かかるものが一般的であったが、近年は様々な工夫が施され、ほぼリアルタイムで条件の変更、解析の実行、結果の確認ができるソフトウェアが市場に出てきている。このようなソフトウェアの整備により、工学シミュレーションの経験がそれほど多くなくても、簡単に結果が出せて、設計にフィードバックでき、大変便利な世の中になったと言える。

工学シミュレーションの落とし穴

上述の通り、ソフトウェアの進化によって簡単に工学シミュレーションを行うことができるようになった。しかし、誰もが常に簡単に「正しく使える」わけではないことに注意しなければならない。

現実の世界で、例えば手に持ったりんごを自由落下させたいとすると、手からりんごをそっと離せば重力の作用により落下して床にぶつかる。りんごは砕けてしまうかもしれない。これは誰でも容易に実感できることである。

一方、コンピュータの中でシミュレーションを行う場合、方向の設定を間違うと、りんごは真下に落下するのではなく、真上に移動してしまう。また、密度の設定を間違うと、りんごではなく、鉄の塊を落下させることになり、床に穴が開いてしまうかもしれない。

これは極端な例で、実際はその結果を見れば設定を間違えてしまったことがわかるわけであるが、経験が浅い担当者が行った場合、たくさんの部品が組み合わさった製品や、複雑な現象をシミュレーションしたい場合、急いで条件を設定したい場合等は、正しく設定したつもりでも、間違った設定をしてしまうことがある。また、汎用のソフトウェアについては、ユーザーはその中で具体的にどのような数式を使ってどのような処理をしているかを確認することができず、いわばブラックボックスとしてソフトウェアを使うことになるため、ユーザーが結果を解釈する際には限界がある。

工学シミュレーションの初歩的なミスに起因する事象の一例として、1991年にオイル産出用の洋上プラットフォームが北海で沈没した事故が挙げられる。この事故による経済的損失は約7億ドルという報告がなされており、ここまで大規模だと想像しにくいかもしれないが、工学シミュレーションが活用される用途によっては、このような莫大な被害が発生する可能性がある。

品質向上に向けた取り組み

上記のような落とし穴はどのように回避できるであろうか。例えば、実際にシミュレーションを行った主担当Aさんの結果を、そのシミュレーションを直接行ってはいないものの、その他のシミュレーションの業務経験が豊富なBさんが確認することは、間違った設定を回避することや、結果の説明性を向上させることに有効であり、社内ルールやガイドラインを制定している会社もある。ここでは、学協会による工学シミュレーションの品質の維持、向上に向けた取り組みについて紹介したい。

最近、工学シミュレーションの品質の維持、向上に関連して、耳にする機会が多くなったV&V(Verification and Validation, 検証と妥当性確認)は、ASME(The American Society of Mechanical Engineers, 米国機械学会) V&V*1の発行によってその認知度が向上したと言えよう。工学シミュレーションを用いて、その結果を「よさそう」と判断するには、「実際の現象を想定してどのような式を用いるか」、「使いたい式は、正しくソフトウェアに組み込まれたか」、「ソフトウェアを用いて出てきた結果は、実際の現象と比較するとどう解釈できるか」をそれぞれ判断する必要がある。このASME V&Vはコンピュータ(ソフトウェア)を用いて、どのようにモデル化するか、という点に主眼が置かれていることから、「モデルV&V」と呼ばれる。

ここで、工学シミュレーションのプロセスを俯瞰的に見てみよう。工学シミュレーションは、人がデータを扱って、コンピュータ(ソフトウェア)を用いて、設計等に反映するということであり、その重要な要素は「コンピュータ(ソフトウェア)」、「データ」、「人」であると言える。図にこの関係を示す。ASME V&V以外にも、工学シミュレーションの要素、あるいはプロセスに着目した品質向上の取り組みが存在する。

まず、「人」に着目した取り組みである、日本機械学会の「計算力学技術者認定」*2について述べる。2003年度から本認定事業が始まり、現在は「固体力学」、「熱流体力学」、「振動」の3つの分野に対して、「初級」、「2級」、「1級」、「上級アナリスト」の4つのレベルが設定されており、原則として下位のレベルから順番に合格を目指すこととなる。「2級」、「1級」の試験では筆記試験を受けることになり、相応の準備をしないと試験に合格することは難しく、実務経験者にとっても学び直しのよい機会となる。また、個別の要素技術だけでなく、「結果の検証」や「技術者倫理」等の分野も含まれるため、実務での活用を念頭に置いた認定制度となっていることは特筆すべき点である。「上級アナリスト」については、企画・マネジメント経験に関する書類の提出と面接を通じて、「2級」や「1級」の技術、知識、経験を持った上で、CAEプロジェクト全体に対して責任を持って担当する力量を問われる。このように体系的な認定制度として整備されてきた本認定事業であるが、英国発祥で主に欧米で活動する国際団体NAFEMSの「CAE技術者認定資格PSE(Professional Simulation Engineer)」との相互認証を開始し、本認定が世界的にも注目を浴びている。

次に紹介する、日本計算工学会の学会標準は、「プロセス」に着目したものである。この標準は、日本計算工学会に設置されたHQC(High Quality Computing)研究会による成果としてまとめられたものであり、計3つの標準が出版されている。「工学シミュレーションの品質マネジメント(S-HQC001)」*3が最も上位に位置する文書であり、ISO9001品質マネジメントに基づいて工学シミュレーション業務の品質マネジメントシステムを構築する場合の、補足的な要求事項を示したものである。また、「工学シミュレーションの標準手順(S-HQC002)」*4には、上述のモデルV&Vを含めた品質保証プロセスの実務的な適用方法が示されており、工学シミュレーションを業務として実施したことがある人がこれを読めば、品質保証のためのどのようなことに注意すべきか、すぐに理解いただけるだろう。「学会標準事例集(HQC003)」*5には、HQC001とHQC002に基づいた運用事例が示されている。これらの標準は日本計算工学会から購入することができるが、PDF版を購入すると、事業所内に限り、印刷と配布、イントラへの掲載、所内文書への転載、改変と所内文書としての再利用が可能となる。ASME V&Vに代表される「モデルV&V」に対して、日本計算工学会の学会標準のようにそのプロセスに着目して品質向上を図るものは、「品質V&V」と呼ばれる。

10年ほど前は「工学シミュレーションの品質保証をして設計に反映するよう、経営から指示があったものの、どうしていいか(何から手をつけていいか)わからない」というような声を多く聞いたが、近年はこれらの取り組みを参考にしながら、社内のガイドラインの策定等を行う会社が増えてきており、今後もこの流れが続くものと思われる。

おわりに

これまで3つの代表的な取り組みを紹介したが、ASME V&Vに代表されるモデルV&V、日本機械学会計算力学技術者認定のような人材育成、日本計算工学会学会標準に規定される品質V&Vを「真面目」に実施しようとすると、実は人、時間、費用がいくらあっても足りない状態になるだろう。しかし、これがスタートラインであり、その認識を持つことが大変重要と考える。なぜなら、冒頭でも述べた通り、不適切なシミュレーション結果と知らずに設計された製品が市場に出てしまうと、取り返しのつかない状態になってしまう恐れがあるからである。現実的には、各社の製品や製造プロセスに合わせて、工学シミュレーションの品質を向上させるために、何に人、時間をかけるべきか(あるいは、かけるべきではないか)を判断して、それに応じた社内のガイドラインを策定していくことになるであろう。

当社は、工学シミュレーション用のソフトウェアの開発や、ソフトウェアを用いた受託解析等の業務を行っている。設計や製品開発は行っていないものの、受託解析業務においてはその結果を価値としてお客さまに提供するため、品質向上と人材育成の一環として、社員の日本機械学会計算力学技術者認定の取得とNAFEMSとの国際相互認証を推奨、支援している。また、今回紹介した日本計算工学会学会標準を策定したHQC研究会への参加等を通じて、工学シミュレーションの品質向上に向けた活動を行っている。

製造業においてさらなるデジタル化が進み、工学シミュレーションがより身近で当たり前となる中で、今後も工学シミュレーションの果たす役割は大きくなると期待される。当社は、単なるソフトウェアの開発、単なる受託解析業務を行うのではなく、工学シミュレーションがどのように活用されるか、どのようなプロセスを経て活用されるべきか、という意識を持ちながら、お客さまの課題解決に取り組んでいく。

図 工学シミュレーションの構成要素と品質向上に関する取り組み
図1

注釈

  1. *1Guide for Verification and Validation in Computational Solid Mechanics, ASME V&V 10-2006, The American Society of Mechanical Engineers, (2007).
  2. *2https://www.jsme.or.jp/cee/
  3. *3「工学シミュレーションの品質マネジメント」第3版, JSCES S-HQC001:2017, 日本計算工学会, (2017).
  4. *4「工学シミュレーションの品質手順」第2版, JSCES S-HQC002:2015 日本計算工学会, (2015).
  5. *5「学会標準(HQC001&002)事例集」, JSCES S-HQC003:2015 日本計算工学会, (2015).
ページの先頭へ