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TCFDのための物理的リスク評価

原料調達の気候リスク減らせ

  • *本稿は、『日経ESG』 2019年9月号 (発行:日経BP社)に掲載されたものを、同編集部の承諾のもと掲載しております。

みずほ情報総研 環境エネルギー第1部 コンサルタント 高野 真之

2017年に気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)がいわゆる「TCFD提言」を発表してから約2年が経過した。2019年7月初旬時点で、世界全体ではTCFDへの賛同組織が795、日本のみに絞っても178を数え、TCFDやそれに伴う情報開示への関心の高さがうかがえる。

少ない物理的リスク評価事例

TCFD提言は、気候変動に関わる事象が自社ビジネスに及ぼし得る影響について、厳密な定性的分析を求めており、また適切と思われる場合は、定量的シナリオ分析(評価)を実施すべきと要請している。それは、「移行リスク」でも「物理的リスク」でも同じである。

「定量的」とは、自社ビジネスに対して気候変動による影響が起こり得るのか、起こり得るとすればどの程度なのかといった具体的な影響に関する情報の開示を指す。

ところが、企業による物理的リスク評価への対応は進んでいないのが実情だ。物理的リスクの中でも農作物へのリスクでビジネスへの影響が大きいと考えられる食品・飲料関連(TCFDの分類でFood ProductionとBeverage)の企業のうちTCFDに賛同したのは13組織にすぎない。

また、13組織の開示をみても、水リスクのみを示しているものや、今後2年でシナリオ分析を行うといった姿勢のみを示しているもの、気候変動の影響について世界全体の大まかな傾向のみを示しているものなど、限定的な内容だった。このような状況では、TCFDの要請に十分に応えているとは言えないだろう。

気候変動による影響は農業、防災、水資源、健康、生態系など様々な領域に及ぶが、なかでも農業分野は古くから日頃の気象への対応を通して農作物などの収穫量や品質への影響とその対策(適応)に取り組んできた。また、それに応える研究も長年にわたり積み上げられ、定量的な影響に関する情報も蓄積されている。

農作物を原材料とする食品・飲料メーカーや食料品を取り扱う商社、綿花を材料とするアパレルなどは、気候変動が原料に及ぼす物理的リスクの定量的な情報を入手し、その評価を検討する必要があるだろう。

とはいえ、物理的リスクの評価に取り組む企業がまだ少ないのにも理由がある。その一因として、企業が参照しやすい、整理された物理的リスクの情報が手軽に入手できないことが挙げられる。代表的な参考文献として気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第5次評価報告書が挙げられるが、ここから企業のTCFD担当者が自社ビジネスに対する影響が大きい特定の国・地域の農産物生産が、どのような影響をどの程度受けるのかといった具体的で定量的、さらにピンポイントの情報を入手することは難しい。

一方で、一定の気温上昇が避けられないという考えの下、気候変動による影響に関する研究は世界で急速に進められており、国や地域における具体的な影響を定量的に示した研究が増えている。日本でも国が主導し、気候変動の影響と適応が研究、調査されている。蓄積されつつある国内外の知見を参照すれば、定量的な情報の入手は可能となる。

しかし、多くの研究を精査して解釈し、自社の状況に当ててリスクを評価するには、気候変動の影響と適応に関する広範かつ専門的な知見が必要となる。一方で、このような人材はどのような企業でも社内で育成できるものではない。物理的リスクの影響が大きい企業がTCFD提言への対応に苦慮するのには、こうした事情がある。

企業と投資家に有益な情報

影響に関する専門的な情報が蓄積されてきたなか、企業と投資家の双方に有益な物理的リスクに関する情報とはどのようなものか。

これまでの筆者の経験では、4つポイントがある。1つ目は開示される情報が科学的根拠に基づいていること、2つ目に気候変動による影響が具体的に数値で表されていること、3つ目にビジネスへの影響を算出する際に利用しやすいこと、4つ目に分かりやすいことだろう。

これらを満たす分かりやすい情報とは、「生産国が明確(どこ)」で「具体的な数値(どの位)」を示しているものだ。つまり、「世界のトウモロコシの収量は減少する」という情報ではなく、「A国のトウモロコシ収量は減少する」というように生産国が明確であることが望ましい。

また、「2050年頃にA国のトウモロコシの収量は10~40%減少する可能性が高い」などのように幅(不確実性)のある数値より、「2050年頃にA国のトウモロコシの収量は25%減る」といった具体的な(一意の)数値であることが望ましい。さらに、排出シナリオによって気温が2℃や4℃に上昇する時期は異なるため、「主なトウモロコシの輸入先A国において、4℃上昇時には収量がX%減少する」といった気温上昇(どのように将来の状況を想定しているか)を明確にした、具体的で、定量的な情報が最も分かりやすい。

このレベルの定量的な情報があって初めて、自社ビジネスへの具体的な物理的リスクを明らかにすることができ、TCFDの要請に応えるとともに、投資家などへのより適切な情報開示につながるだろう。

農作物へのリスク評価事例

筆者が所属するみずほ情報総研は、国や研究機関による気候変動の影響に関する主要なプロジェクトに参画・支援し、物理的リスクに関する専門的な知見を長年蓄積してきた。最近ではこれらの知見を活用し、TCFD提言への対応を進める企業に対し、情報を収集、加工、整理して提供している。

ここではこれまでの経験を基に、企業からのニーズが高い「農作物への物理的リスク評価」の事例を紹介する。農林水産省が示す「品目別貿易実績」によると、今年5月時点で日本の輸入農作物のうち、タバコを除いて最も輸入量が多い品目はトウモロコシで、米国からの輸入が全体のおよそ80%を占める。ここでは「米国のトウモロコシ収量」を例に様々な文献を基に定量情報を整理したシナリオ分析の結果を示す。

図表1は、気温上昇時に米国全土、もしくは州ごとの収量にどのような変化があるかをまとめたものだ。基準となる期間の収量を100%とし、気温が上昇すると収量がどう増減するかを示した。この表では米国全土(1)で気温上昇が1℃未満だった場合、トウモロコシの収量は基準の期間と比べて96%になり4%減る。

左から右に産業革命以前と比べて気温が上昇する。セルの色が薄緑のケースでは農作物の収量が増えるなどプラスの影響が生じ、薄赤では収量減などのマイナスの影響、薄黄色はプラスとマイナスの両方の影響があり得ることを示す。

さらに、この結果を基に米国全土を対象とした研究(前表の米国全土(1)と(2)。参照している文献が異なる)を統合し、気温が1.5℃、2℃、4℃と上昇した場合の影響として整理した(図表2)。気温の上昇による収量減を、具体的な数値で示したことに注目してほしい。

このレベルまで影響が整理されると、自社ビジネスへの気温上昇時の物理的リスクが明確になる。また、この影響に、リスクに関連する自社製品の売上高などを乗じると、金額ベースの影響も把握できる。

この方法の場合、産業革命以前の水準と比較して気温が何℃上昇するとどの程度の影響が生じるのかという情報が、原産国別に整理される。これにより、企業担当者も2℃上昇の場合、4℃上昇の場合の影響を容易に把握できる。

また、例えば、環境省が2019年3月に公表した「TCFDを活用した経営戦略立案のススメ~気候関連リスク・機会を織り込むシナリオ分析実践ガイド~」で示す2℃や4℃のシナリオにおける物理的リスク評価についても、気温の上昇に対応する影響の数値をそのまま用いることで対応が可能となる。

なお、特定の原産国の品目に関する研究事例が見つからない場合もあり得る。しかし、調査したが見つからなかったという事実を開示することが、網羅的な評価に努めたことを伝える重要なメッセージになろう。


図表1 米国のトウモロコシ収量に対する気候変動の影響
図表1

米国全土(1)と(2)は参照している文献が異なる。かっこ内の数値は、みずほ情報総研が各種文献を基に作成した近似式などによって補間した。州・地点ごとに異なる文献を参照している
出所:各種文献を基にみずほ情報総研が作成


図表2 米国のトウモロコシ収量に対する気温上昇の影響
図表2

産業革命前と比べた世界平均気温の上昇度合いごとに収量の変化を示した。「基準の収量」は1986~2005年における収量の平均値
出所:国連食糧農業機関の統計「FAOSTAT」や各種文献を基にみずほ情報総研が作成

リスク評価を経営に活かせ

将来の気候変動における物理的リスクを定量的に評価することは、すなわち自社ビジネスへの影響の定量化へとつながる。例えばリスクが高い原産国の農作物は対応策を検討し、必要に応じて講じるといった経営判断に活かすことが可能となる。これにより、自社ビジネスへの影響を回避したり、十分に軽減したりすることもできよう。

紹介した手法のように、気候変動影響・適応に関する研究・調査の知見を基に、TCFD提言への対応に使いやすい形で加工・整理していくことで、総論的、定性的な物理的リスクに関する記載は、段階を踏みつつも、より具体的、定量的な記載へと変わると想定される。こういった知見にいち早くアクセスし、TCFD提言へのより具体的な対応に向けた準備を開始した企業も現れ始めている。

先述のとおり、気候変動の影響とその適応に関する研究は近年、急速に進展し、有益な情報が蓄積され始めている。今後は、これらの情報を活用して自社の物理リスクを分析し、対応策と合わせて開示する企業が、レジリエンスの観点で投資家らから高い評価を獲得してビジネスを展開できるようになるだろう。

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