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危機下で考える特例措置の意義

  • *本稿は、『週刊東洋経済』 2021年7月24日号(発行:東洋経済新報社)の「経済を見る眼」に掲載されたものを、同編集部の承諾のもと掲載しております。

みずほリサーチ&テクノロジーズ 主席研究員 藤森 克彦

2012年のロンドンオリンピックの開会式では、農村社会から産業革命を経て成熟していく英国の歴史が、歌と演劇によって表現されていた。印象に残っているのは、無数の病院のベッドが並び、患者役の子どもと看護師600人が踊る中で「NHS」の文字が浮かんだ瞬間だ。筆者は、開会式でNHSが取り上げられるとは思いもしなかった。

NHSとは、1948年に創設された英国の国営保健サービスのことである。この制度によって、英国に居住するすべての住民は、原則無料で医療サービスを受けられる。今も、英国人の大多数が、NHSを支持している。

NHSが創設される前の英国では、医療は奢侈(しゃし)品であり、実質的に所得階層によって利用できる医療に差があった。歴史的に階級社会であった英国では、NHSの創設は容易ではなかったと思われる。

議論のあるところだが、NHS創設の背景の1つに、人々が第2次世界大戦という危機を経験したことが指摘されている。平時では社会階層ごとに別々の人生を送っていた人々が、戦時下では、兵役や爆撃、食糧難などの苦難を共にした。また、労働者階級の生活の厳しさが広く社会に認識された。人々が社会問題への意識を高めたことが、戦後の社会保障制度の基盤づくりにつながったという。

今、日本も、コロナ禍という危機の中にある。とくに、自営業者や非正規労働者を中心に、これまで普通に仕事を続けてきた人が、長期的に困難な状況に置かれている。こうした中、政府は特例的な貧困対策などを実施してきた。これには、世論の後押しも大きい。

しかし、コロナ禍前にも貧困に陥る人はいたし、収束後も同様だ。そうであれば、危機の下で採られた特例措置の中には、恒久的な制度につなげるべきものがあろう。

例えば、短時間労働者への「傷病手当金」の適用だ。傷病手当金とは、病気やケガのために3日連続で休むと、4日目から収入の約3分の2を支給する制度である。同制度は正規労働者などが加入する被用者保険では法定化されているが、自営業者や短時間労働者などが加入する国民健康保険(国保)では義務づけられていない。

しかし、政府は20年3月に、コロナに感染するなどした勤め人に傷病手当金を支給した国保に対して、特例的に支給額全額を財政支援する旨を通知した。感染予防という限定はあるが、まずは短時間労働者への手当金の支給環境が整ったことを歓迎したい。主たる生計維持者として働く短時間労働者が増えており、病気やケガをした際の生活に不安を感じる人は多い。とくに、就業するシングルマザーの4割強は非正規労働者である。

今後は、感染症に限らず、病気やケガをしたときには、短時間労働者であっても、傷病手当金を受給できる選択肢を考えていく必要がある。政策的には、短時間労働者への被用者保険の適用拡大を一層進めることなどが考えられる。

危機の中では社会問題が顕在化して、特例措置が実施されやすい。重要なのは、こうした措置の持つ意義を吟味したうえで、恒久的な制度につなげていくことである。

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