Mizuho RT EXPRESS
交渉入りした「インド太平洋経済枠組み」
─ 今後は、ルールの水準、合意時期、参加国に注目 ─
2022年9月12日
調査部 主席研究員(プリンシパル) 菅原淳一
junichi.sugawara@mizuho-rt.co.jp
交渉対象事項を決め、交渉開始に合意
2022年9月8-9日、米国・ロサンゼルスにおいて「繁栄のためのインド太平洋経済枠組み(Indo-Pacific Economic Framework for Prosperity: IPEF)」の閣僚会合が開催された。同会合の注目点は、①IPEFの「4つの柱」につき交渉開始に合意できるか、②各柱の交渉対象事項に何が含まれるか、③各柱の交渉にどの国が参加するか、の3点であった。この採点基準からすれば、今回の閣僚会合の結果はほぼ満点に近いものと評価できる。満点とはならなかったのは、交渉の第1の柱「貿易」にインドが参加しなかったためである。
2022年5月23日に立ち上げられたIPEFは1、閣僚級会合を含め、交渉開始に向けて参加14カ国で調整が進められてきた(図表1)。IPEFの4つの柱、すなわち、「貿易」、「サプライチェーン」、「クリーン経済」、「公正な経済」のそれぞれにつき、どのような要素(交渉事項)を含むか等が議論されてきた2。立ち上げ時には、IPEFを「設立するためのプロセスを立ち上げ」、「将来の交渉に向けた議論を開始する」ことに合意されていたため3、まずはいつ交渉を開始できるかが注目されていた。今回、4つの柱のすべてにつき、議論の段階から交渉の段階へと移行できたことは、大きな進展である。
図表1 IPEFとインド太平洋地域の主な経済枠組み
(注)丸囲みはQuad構成国。
(出所)みずほリサーチ&テクノロジーズ作成
4つの柱のそれぞれの交渉事項についても今回合意された(図表2)。いずれの柱においても、交渉を主導する米国の意向が反映された、野心的な内容になっていると評価できよう。例えば、「貿易」においては、「デジタル経済」が交渉事項に含まれた。その内容は、「信頼でき、安全な越境データ移動」、「デジタル経済の包摂的で持続可能な成長」、「新興技術の責任ある開発と利用」等とされている4。「信頼でき、安全な越境データ移動」では、TPP(環太平洋パートナーシップ)や日米デジタル貿易協定で規定された越境データ移動の自由、データ・ローカライゼーション要求の禁止、ソースコード等の開示要求の禁止といった規定を盛り込むことが目指されるものとみられる。
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交渉分野(柱) | ①貿易 | ②サプライチェーン(供給網) | ③クリーン経済 | ④公正な経済 |
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参加国 | 印を除く13カ国 | 全14カ国 | 全14カ国 | 全14カ国 |
目的 | 高水準・包摂的・自由・公正・開かれた貿易約束。経済発展水準を考慮した柔軟性、技術支援・能力開発 | 透明性・多様性・安全性・持続可能性の改善による、より強靭・強固・よく統合された供給網の構築 | 温室効果ガス排出削減、エネルギー安全保障、気候に対する強靭性・適応性、持続可能な生活と雇用の追求 | 腐敗防止・租税回避抑止・国内資源動員の改善による域内企業・労働者にとっての公正な競争条件の追求 |
交渉 事項 |
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(出所)USTR, “United States and Indo-Pacific Economic Framework Partners Announce Negotiation Objectives,” September 9, 2022より、みずほリサーチ&テクノロジーズ作成
IPEF参加国は、4つの柱のすべての交渉に参加する義務はなく、いずれに参加するかを自由に選べるとされていたため、どの柱の交渉にどの国が参加するのかも注目点のひとつであった。今回の合意により、「サプライチェーン」、「クリーン経済」、「公正な経済」の3つの柱の交渉には全14カ国が参加することとなった。唯一の例外が、インドが「貿易」の交渉に参加しなかったことである。
インドは、「貿易」の柱については、「環境、労働、デジタル貿易、公共調達など、参加国間で広範なコンセンサスに至っていない分野」が含まれ、発展途上国の不利益になることが懸念されるとして、また、インドは「プライバシーとデータを含むデジタルの枠組み・法を構築している過程にある」として、今回の交渉参加を見送ったとしている。このインドの姿勢は、米国等が望む環境や労働、デジタル経済をはじめとする分野での高水準のルールに対する警戒心の表れと言えるだろう。ただし、インドは今後も「貿易」の柱についても関与を続けるとしている5。
なお、IPEFに参加していない台湾については、米国と台湾の間で「21世紀貿易に関する米台イニシアティブ」が2022年6月に立ち上げられ、8月17日には11分野について交渉を開始することで合意されている。この11分野には、貿易円滑化や労働、環境、デジタル貿易、腐敗防止等、IPEFと重なるものが多く含まれており、米国は同イニシアティブを通じて、台湾をIPEFの取り組みに事実上取り込んでいくことを狙っているとみられる6。
目を引くサプライチェーン強靱化の試み
今回合意された各柱の交渉事項は、いずれもグローバルなルール形成や企業の事業活動に大きな影響を与えるものであるが、特に目を引くのが第2の柱「サプライチェーン」である。ここでは、国家安全保障の観点から重要となる分野・品目を特定する基準を確立することで、域内でそれらの分野・品目におけるサプライチェーンの混乱が生じた場合のIPEF参加国間の協力を円滑にし、各国政府が緊急かつ効果的に対応する準備ができるようにすることを目指すとされている。また、サプライチェーン上のチョークポイントを洗い出し、重要分野における参加国の国内産業の強化や貿易投資の促進を図るとしている。さらに、域内官民のタイムリーな情報共有によるサプライチェーンの混乱に対する早期警戒とより効率的・効果的な対応、物流(logistics)の強化による既存の、あるいは潜在的なボトルネック解消方法の検討なども含まれている。
これらが実現すれば、IPEF参加各国の経済安全保障の強化につながるとともに、米国が目指す「フレンド・ショアリング」(価値を共有する同志国との安全で信頼できるサプライチェーンの構築)が大きく進むことになるだろう。
今後の注目点は、ルールの水準、合意時期、参加国
今後、各柱の交渉が進められる中では、各交渉事項においてどの程度の水準のルールで合意されるのかが注目される。例えば、「貿易」の柱でインドが懸念を示したように、環境、労働、デジタル経済等で高水準のルールが目指されれば、それらの受け入れに難色を示す新興国・途上国が出てくることも想定される。他の柱でも同様のことが生じうる。そうなれば、交渉は長引き、合意時期もそれだけ遅くなる。また、交渉を離脱する国が出てくることも懸念される。反対に、インドが「貿易」の交渉に参加したり、新規のIPEF参加希望国が現れたりすることも考えられる。
これまでの議論の過程での参加国の姿勢を単純化して言えば、出来るだけ多くの国が参加して高水準のルールで合意することを目指す米国、IPEFがもたらす実利を重視し、合意の実施における柔軟性と協力(技術支援・能力構築)を求める新興国・途上国、高水準のルールと協力を両輪とするバランスの取れた合意を望む日本という構図になっている。この構図においては、日本が米国と新興国・途上国の間の調整役という重要な役回りを担うことになるだろう。
合意時期の目安としては、米国が議長を務める2023年11月のAPEC(アジア太平洋経済協力)首脳会合の頃が指摘されているが、「サプライチェーン」等でのより早期の合意を期待する声もある7。
今後のIPEFの歩みは、米中間の戦略的競争やインド太平洋地域の経済秩序、日本を含む参加各国の経済安全保障に大きな影響を与えることになるだろう。
- 1 IPEFの立ち上げについては、菅原淳一「米国のインド太平洋経済戦略」『みずほインサイト』2022年5月31日、みずほリサーチ&テクノロジーズ、参照。
- 2 4つの柱は、これまで①貿易、②サプライチェーン、③クリーンエネルギー・脱炭素化・インフラ、④税・腐敗防止、と呼ばれていたが、今回、本文中の4つになった。呼称が変わったのみで、内容に変更はない。
- 3 外務省「繁栄のためのインド太平洋経済枠組みに関する声明」(仮訳)、2022年5月23日。
- 4 USTR,“United States and Indo-Pacific Economic Framework Partners Announce Negotiation Objectives,” September 9, 2022.
- 5 ‘India’s Goyal: Decision not to join trade pillar driven by environment, labor concerns,’ Inside U.S. Trade, September 9, 2022.
- 6 USTR, ‘United States and Taiwan Commence Formal Negotiations on U.S. – Taiwan Initiative on 21st Century Trade,’ August 17, 2022.
- 7 IPEF ministers to begin economic rules-making talks in U.S.,’ The Japan Times, September 4, 2022.