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Mizuho RT EXPRESS

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楽観論を退けるインフレ力学の3つの教訓

─ パウエルFRB議長のジャクソンホール講演 ─

2022年8月29日

調査部プリンシパル 小野 亮
makoto.ono@mizuho-rt.co.jp

インフレ抑制に向けた強い決意表明

8月26日、パウエル米連邦準備制度理事会(FRB)議長が行ったジャクソンホールでの講演は、インフレ抑制に向けた、従来以上に強いトーンの決意表明となった。「拙速な金融緩和には強い警戒感がある」として、「来年には利下げに転じる」という金融市場参加者の期待(ピボット論)を退けた。

パウエル議長は講演の冒頭で、「インフレ率を2%に引き下げることが、米連邦公開市場委員会(FOMC)の包括的な焦点である」と簡潔に宣言した。そのために必要な「金利の上昇、トレンドを下回る低成長の継続、労働市場の軟化が、家計や企業に何等かの痛みをもたらす」ことはもはや覚悟の上である。

講演前に公表された7月コア個人消費支出デフレーター上昇率が前月比+0.1%と緩やかなものに留まったことを受け(詳細は後述)、パウエル議長は「歓迎すべきこと」と述べたが、「単月の改善では、インフレ率が低下しているとFOMCが確信するのに必要な内容には程遠い」との評価を示した。

パウエル議長が講演を通じて重視したのは労働市場の不均衡であり、「利用可能な労働供給を労働需要が大幅に上回り、明らかに均衡を欠いている」と述べた。実際、8月初めに公表された7月雇用統計では非農業部門雇用者数も賃金も共に高い伸びとなり、前月末に公表された4~6月期雇用コスト指数も同様であった。なお非農業部門雇用者数に関しては、米国労働省が「暫定的な年次改定によって2022年3月の雇用者数は46.2万人(民間部門では57.1万人)上方修正される見込み」としており(8/24)、雇用者数全体からみてわずか(0.3%)とはいえ雇用の強さを改めて示す動きである。

パウエル議長は政策金利について、インフレ率を2%に戻すために十分引き締め的な水準に向けて「意図的に」(purposefully)政策スタンスを移行していると述べた。「迅速に」(expeditiously)という言葉を使わなかったことについて金融市場では「将来の利上げペース鈍化に向けた布石」と捉える向きもあるようだが、「インフレ抑制に向けた覚悟の表れ」と捉える方が自然だろう。

金融市場参加者にとって最もサプライズだったのは、「来年にも利下げに転じる」というピボット論を退けたことであろう。パウエル議長は、7月議事要旨で明らかになった一部参加者の「物価の安定を回復するには、しばらくの間、引き締め的な政策スタンスを維持する必要があるだろう」という見解をそのままなぞりながら、「過去を振り返ると、拙速な金融緩和には強い警戒感がある」と述べた。

インフレ力学の3つの教訓~物価安定への絶対的責任、期待の重要性、断固たる行動

パウエル議長は、過去半世紀の経験からインフレの力学に関する3つの重要な教訓を学んだと述べた。物価安定に対する中央銀行の絶対的・無条件の責任、インフレ期待の重要性、一貫した断固たる行動の必要性、である。これらの教訓は、すでに高インフレが長い間続いている現状において、物価安定の回復に対する楽観論を戒めるものだ。

第一の教訓は、高インフレが「世界的な現象」であったり、米国内の供給制約に一因があったりしたとしても、FRBは「低位で安定したインフレを実現する責任を負うことができ、また負うべき」であり、「物価安定を実現する責任は無条件である」というものである。すでに高インフレが長い間続いている現状において、今や引き締めによって強い需要を抑制し、需給バランスを回復させることでインフレ圧力を抑え込む責任がFRBにはある、との考えにつながっている。

第二の教訓は、インフレ期待の重要性であり、「現在の高インフレが長引けば長引くほど、インフレ期待が定着する可能性が高くなる」というものである。「今日、(家計、企業、予測担当者に対する調査や、市場ベースの指標など)多くの指標から見て、長期的なインフレ期待はよく固定されているように見える」としても「満足すべき根拠にはならない」という。すでに目標を大きく上回るインフレが長い間続いていることを踏まえると、それが期待として定着するリスクがあるためだ。

第三の教訓は、「(物価安定の回復という)仕事をやり遂げるまで、やり続けなければならない」というものである。「インフレ抑制のために犠牲になる雇用は、インフレ抑制が遅れれば遅れるほど増加する可能性が高い」ためだ。

1980年代初頭、当時のボルカーFRB議長がインフレ退治に成功したことはよく知られている。しかしそれには、「極めて引き締め的な金融政策を長期にわたって行う必要」があった。その理由は、ボルカー議長以前の15年間にわたって、FRBが引き締めと緩和を繰り返し、「インフレを引き下げる試みに何度も失敗してきた」ためであり、ボルカー元議長は、厳しく長い引き締めによってそのツケを払わされたのである。

楽観できない米物価情勢、米金融政策は厳しい引き締め継続

パウエル議長は、楽観的なピボット論を退け、「腹を据えて」インフレ抑制に取り組む姿勢を示した。実際、米物価情勢は楽観には程遠い状況にある。物価安定―――人々がインフレを気にせずに経済活動を行う世界(合理的無関心)の回復に向けて、厳しい引き締めが続くとみられる。

足元の基調的物価指標は、高インフレが定着する蓋然性が高いことを示している。7月のコア個人消費支出デフレーター上昇率は前月比+0.1%と大きく鈍化したが、単月のブレをならすために3カ月前比年率上昇率でみてみると+4.3%であり、インフレ圧力の継続的な後退は起きていない。クリーブランド連銀が公表している他の基調的物価指標(メディアン、刈り込み平均)でみても同様の動きであり、メディアンについては2カ月続けて年率+6%を超えている。

こうした中、インフレに対する人々の関心は高まるばかりである。ミシガン大によれば「生活が苦しい」理由として「物価高」を挙げる割合は7月時点で49%にのぼり、1月調査結果から倍増した。高インフレが持続する場合、家計や企業は無関心ではいられず、インフレ動向に細心の注意を払い、インフレを経済的な意思決定に反映させなければならなくなる。インフレ期待の上昇の始まりである。

一方、インフレ率が低く安定している物価安定の局面では、家計や企業はインフレを気にする必要がなく、インフレから自由に経済的な意思決定を行うことができる。パウエル議長は、グリーンスパン元議長の発言を引用しながら、こうしたインフレに対する「合理的無関心」という概念に触れた。

果たして人々がインフレに無関心になる時期はいつ訪れるのか。ロシア・ウクライナ戦争、気候変動への対応、経済安全保障の観点からのグローバルサプライチェーンの見直し、労働者の高齢化に伴う労働供給の構造的鈍化等を踏まえると、物価安定―――合理的無関心の回復にはまだまだ長い時間がかかりそうだ。米金融政策は厳しい引き締めが続くことを覚悟する必要がある。

[参考文献ほか]

小野亮(2021)「インフレ抑制なくして雇用なし~FRB次期体制と当面の米金融政策の展望~」みずほリサーチ&テクノロジーズ、『みずほインサイト』、11月26日
―――(2022)「困難な調整が待ち受ける米国経済~迅速な引き締めでもインフレ抑制には高い壁」みずほリサーチ&テクノロジーズ、『Mizuho RT EXPRESS』、4月7日
―――(2022)「焦りを見せる5月FOMC~期待を通じた引き締め前倒しは米物価情勢の深刻さの裏返し~」みずほリサーチ&テクノロジーズ、『Mizuho RT EXPRESS』、5月10日
―――(2022)「政策的逆風下でも米家計の流動性は潤沢~巨額の現金保有と構造変化を受けた米企業の積極採用が支え~」みずほリサーチ&テクノロジーズ、『Mizuho RT EXPRESS』、6月3日
―――(2022)「3倍速利上げも視野?~米金融政策の引き締め強化と景気後退リスクの高まり~」みずほリサーチ&テクノロジーズ、『Mizuho RT EXPRESS』、6月14日
―――(2022)「米政策金利は4%を睨むが終着点は見えず~6月FOMCは0.75%利上げ、引き締めは長期化~」みずほリサーチ&テクノロジーズ、『Mizuho RT EXPRESS』、6月16日
―――(2022)「険しさ増す米ソフトランディングへの道~景気後退によるデフレ効果はわずか~」みずほリサーチ&テクノロジーズ、『Mizuho RT EXPRESS』、6月24日
―――(2022)「9月0.75%利上げも示唆した7月FOMC~2四半期マイナス成長でも物価安定の回復が最優先~」みずほリサーチ&テクノロジーズ、『Mizuho RT EXPRESS』、7月29日

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