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「年収の壁」解消の経済効果

─ 就業者約70万人分の労働時間増加余地 ─

2023年3月30日

調査部経済調査チーム 主任エコノミスト 風間春香
haruka.kazama@mizuho-rt.co.jp

パート労働者の時給が上昇する一方で労働時間は減少

人手不足や最低賃金の引き上げを背景に、アルバイトやパートタイム労働者(以下、パート労働者)の時給が上昇している(図表1)。三大都市圏のアルバイト・パート募集時平均時給は足元で前年比2%を超えており、とりわけ飲食業関連の「フード系」の上昇幅が大きくなっている1。コロナ禍からの経済活動再開を背景に、対人サービス業種を中心に時給が上昇している様子がうかがえる。

一方、パート労働者の労働時間は、時給の上昇に反して長期的に減少トレンドにある(図表1)。この背景として、高齢者など労働時間が比較的短い層の労働参加が増えたこと2や、「年収の壁」による就業調整の存在が指摘されている3。年収の壁とは、税や社会保険料等の支払い義務が生じる収入の基準のことである(図表2)。こうした基準を超えて働くと、結果として世帯の手取り収入が減少する「働き損」になるため、就業時間を抑制する意向が働く。

図表1 パート労働者の時給と労働時間

(注)時給は現金給与総額を実労働時間数で除したもの。
(出所)厚生労働省「毎月勤労統計調査」より、みずほリサーチ&テクノロジーズ作成

図表2 主な年収の壁

(注)住民税については地域による違いがある。
(出所)内閣府男女共同参画局「令和4年男女共同参画白書」、中里(2023)より、みずほリサーチ&テクノロジーズ作成

コロナ禍の終息が意識されるなかで人手不足感は全般に強まりつつあるが、パート労働者の就業調整はそれに拍車をかける一因になっている。労働政策研究・研修機構(2018)によれば、「就業調整」が必要な労働力を確保する上でどの程度影響しているかについて、「影響がある」と回答した事業所が全体の1/3を超えていた4。また、厚生労働省(2016)では、就業調整は特に年末に行われることが多く、パート労働者を多く雇用する企業は繁忙期である年末の人材確保に苦慮していると報告されている。

限りある労働力を最大限に活用するには、就業インセンティブを阻害する可能性がある制度を可能な限り改善することが求められる。岸田首相は今年3月、年収の壁解消に向けて「幅広く対応策を検討する」と表明した。

本稿では、現在就業調整がどの程度行われており、仮に就業調整が行われなくなった場合にどのような効果が期待できるかを考察する。

非正規で働く既婚女性の約4割が就業調整を実施

まず、就業調整を行っている労働者がどれくらいいるのか確認しよう。2017年に実施された総務省の「就業構造基本調査」によると、就業時間または就業日数の調整を行っている労働者は、非正規雇用者全体の26.2%であり、とりわけ既婚女性に多い(図表3)。非正規で働く既婚女性のうち就業調整を行っている労働者は40.8%にのぼり、年収が「50~99万円」と「100~149万円」では半数超が就業調整を実施している(図表4)5。年収103万円・106万円・130万円の壁を意識している労働者が多いことが示唆される6

図表3 就業調整をしている非正規雇用者の内訳

(出所)総務省「平成29年就業構造基本調査結果」より、みずほリサーチ&テクノロジーズ作成

図表4 就業調整をしている既婚
女性・非正規雇用者(収入階層別)

(注)就業調整をしている者の割合は、配偶者あり・女性非正規雇用者数(総数)に占める割合。
(出所)総務省「平成29年就業構造基本調査結果」より、みずほリサーチ&テクノロジーズ作成

中里(2023)によると、実際に世帯収入が減少しやすいのは社会保険料の負担が発生する「106万円の壁」7と「130万円の壁」を超えた場合である。また、「103万円の壁」に代表される税制による壁は税負担によって世帯収入が減少しないような仕組みになっているが、配偶者(家族)手当を支給する企業において支給基準として援用されている場合もあることから8、就業に何らかの影響を与えているとみられる9

就業調整がなくなった場合の効果は、約70万人の雇用増に相当

就業調整がなくなれば、労働供給(労働時間)の増加を通じて人手不足緩和に貢献するとみられる。では、どれくらい労働時間の増加余地があるのだろうか。

現在就業調整を行っている非正規雇用者が月3日出勤を増やした場合、マクロの労働時間(就業調整実施者×1人当たり労働時間)は月約1億時間増加すると試算される(図表5)。これを就業者数に換算すると、約70万人分に相当する(なお、月3日出勤を増やすとの仮定は、パート労働者の労働時間減少が顕著になる前の2000年代前半並みに労働時間が戻ることを想定したためである)。人手不足が深刻化しつつある日本経済にとって、無視できないインパクトがあると言えよう。

図表5 就業調整がなくなった場合の労働時間増加余地(2022年時点)

(注)労働時間の伸びしろ(人数換算)は、全労働者の平均時間で除して計算。
(出所)総務省「労働力調査」「就業構造基本調査」、厚生労働省「毎月勤労統計」等より、みずほリサーチ&テクノロジーズ作成

制度の正しい理解を促すとともに、働き方や雇用の選択を歪めない制度の構築へ

ただし、上記の試算は就業調整が完全になくなることを前提としており、それには税制・社会保障制度の抜本的改革が求められる。中長期的には「働き方に中立」な税制・社会保障制度を実現することが望ましいが、現時点では実現へのハードルは高いと言わざるをえない。

中里(2023)は、社会保険等の年収の壁問題については「すべての人を満足させる制度技術的解法はない」としているが、基本的な方向性として、まずは現行制度の正しい理解を促すとともに、中長期的には労働者の働き方や企業による雇い方の選択を歪めたり、不公平を招いたりすることがないような制度を構築することが重要である。現行制度の理解については、例えば「106万円の壁」(被用者保険適用基準:雇用契約時の月額基本給8.8万円を年収換算)と「130万円の壁」(被扶養者認定基準:残業代や賞与、各種手当、副業収入等を含む総収入)の意味や収入の範囲等は異なるが、正しく理解されていないケースがあるとの指摘もある10。政府は社会保険加入のメリットを周知するとともに、分かりやすい情報提供に努める必要がある。「働き方に中立」な制度については、これまで段階的に制度改正が行われ、社会保険の適用対象を拡大してきた(図表6)。政府の全世代型社会保障構築会議の報告書(2012)では、企業規模要件の撤廃やさらなる適用拡大を通じて「勤労者皆保険」の実現を目指すことが提言されている。

しかし、現在検討されているのは、パート労働者の保険料を政府が一時的に肩代わりする案である。これにより世帯収入の減少を回避できるため就業調整は減る可能性が高いものの、自ら保険料を納めている他の被保険者との不公平が拡大することにならないか、「勤労者皆保険」の理念と整合的なのかとの疑問も生じる。政府には、こうした一時的な対策にとどまらず、「働き方に中立」な税・社会保障制度の抜本的改革に向けた議論を早急に進めることが求められよう。

図表6 短時間労働者に対する厚生年金の適用拡大の経緯

(出所)中村(2022)より、みずほリサーチ&テクノロジーズ作成

[参考文献]

厚生労働省(2016)「女性の活躍促進に向けた配偶者手当の在り方に関する検討会報告書」
厚生労働省(2022)「労働経済の分析-労働者の主体的なキャリア形成への支援を通じた労働移動の促進に向けた課題-」
内閣官房全世代型社会保障構築会議(2022)「全世代型社会保障構築会議報告書」
内閣府(2021)「令和3年度年次経済財政報告」
中村一磨(2022)「国民年金第3号被保険者制度についての一考察」『RESEARCH BUREAU論究(第19号)』
中里孝(2023)「「社会保険の壁」と「就業調整」」『国立国会図書館調査と情報―ISSUE BRIEF―No.1218』
労働政策研究・研修機構(2018)「「社会保険の適用拡大への対応状況等に関する調査」及び「社会保険の適用拡大に伴う働き方の変化等に関する調査」結果」


  • 1リクルートジョブズリサーチセンター「アルバイト・パート募集時平均時給調査」によると、2023年2月の平均時給は前年比+2.1%、フード系は同+5.3%であった。
  • 2厚生労働省(2022)による。
  • 3日本経済新聞(2023年1月23日)「第3号被保険者制度や配偶者控除就労意欲妨げる制度の改革を東大教授山口慎太郎(ダイバーシティ進化論)」。
  • 4同調査では「特段、影響していない」とする割合が過半数(58.7%)を占めたものの、「大いに影響している」(8.0%)と「一定程度、影響している」(26.4%)の合計が30%を超えた。
  • 5就業調整を行っている者の割合は、各種調査によって差がある点には注意が必要である。厚生労働省「パートタイム・有期雇用労働者総合実態調査(2021年)」では、就業調整を行っている者は13.4%、既婚女性のうち就業調整を行っている者は20.2%であった。
  • 6厚生労働省「パートタイム・有期雇用労働者総合実態調査(2021年)」によると、既婚女性が就業調整をする理由(複数回答)は「一定額(130万円)を超えると配偶者の健康保険、厚生年金保険等の被扶養者からはずれ、自分で加入しなければならなくなるから」(56.6%)が最も多く、「自分の所得税の非課税限度額(103万円)を超えると税金を払わなければならないから」(49.5%)が続いた。
  • 7「月額賃金88,000円」を年収換算したおよその額を基にした表現。
  • 8人事院「民間給与の実態(2022年)」によると、民間企業の55.1%が配偶者に家族手当を支給している。配偶者の収入に制限を設けている企業では、その基準を103万円とする割合が46.7%、130万円とする割合が34.3%となっている。
  • 9内閣府(2021)による。
  • 10日本経済新聞(2023年3月18日)「「年収の壁」誤解を解く」の中で、「企業の現場管理者クラスでもこれを十分知らず、106万円超えを避けるために残業減を助言することがある」(UAゼンセン副書記長)とのコメントが紹介されており、必要でない就業時間の調整が行われている可能性がうかがえる。
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