「年収の壁」の議論と所得再分配の意義

2025年3月5日

みずほリサーチ&テクノロジーズ 主席研究員

藤森 克彦

*本稿は、『週刊東洋経済』 2025年2月8日号(発行:東洋経済新報社)の「経済を見る眼」に掲載されたものを、同編集部の承諾のもと掲載しております。

短時間労働者の年収が一定額を超えると、税や社会保険科の支払いが発生し手取り収入が減少する「年収の壁」再び議論されている。今回の議論の対象は、所得税の支払いが発生する「年収103万円」だ。 政府・与党は昨年末に、基礎控除や給与所得控除を引き上げて、右の年収ラインを103万円から123万円に高める改正案をまとめた。

この背景には、昨年の衆議院選挙で、一部野党が「手取りを増やす」政策を提起し、国民の支持を集めたことがある。

筆者は、一連の「年収の壁」の議論に違和感を持っている。というのも「壁」の議論では、税や社会保険料は手取り収入を減らす要因として捉えられ、所得再分配機能を果たす財源であることが見落とされがちだからである。

現代の国家では、税や社会保険料は、政府に召し上げられて終わりではない。 政府は、負担能力に応じて集めた税や社会保険料を用いて、今支援を必要とする人たちに対して所得を再び分配する。すなわち、誰の人生でも、病気、要介護、子育て、失業、生活困窮など、個人や家族の力だけでは対応が難しい問題は生じうる。そうした問題に直面した人たちには、社会で連帯して助け合えるように、税・社会保険料を財源に社会保障給付がなされている。

社会保障給付には、生活保護制度のように低所得者に限定した給付もあるが、子育て、医療、介護、年金などは、すべての所得階屑を対象とする。 ちなみに、社会保障給付の約9割は社会保険が占める。病気などリスクに陥った人に給付がなされ、中間層を中心に人々が貧困に陥ることを防いでいる。

そしてそのためには、個人が自由に使えるお金(手取り収入)とは別に、みんなで助け合う再分配のためのお金(税・社会保険料)を用意しておく。これが将来不安を緩和して、人々が安心して社会で活動できる基盤を築いている。

この点、 今回の所得税の課税ライン引き上げは減税につながり、減税額は6000億~7000億円に上る見込みである。基礎控除の引き上げは富裕層にも及ぶので、所得税率が高い富裕屑ではその恩恵も大きい。一方、減税目的の1つは物価高への対応である。そうであれば、広く薄く減税するよりも、その税を財源に物価高に苦しむ低所得者層を中心に再分配をしていく方策があるのではないか。

そして、所得再分配は社会全体の所得格差を是正し、貧困率を低下させる効果を持つ。コロナ禍前の再分配後所得で見た相対的貧困率(2018年)を主要先進国で比べると、日本の貧困率 (16%)は、米国 (18%)より低いが、英国(12%)、ドイツ(10%)、スウェーデン(9%)よりも高い水準である。再分配による貧困率の改善度を見ても、日本は米国に次いで低い。日本は、所得再分配機能を強化する必要がある。

手取り収入の増加は、税や社会保険料の削減ではなく、賃金の引き上げなどで対応する。 一方、格差拡大や貧困といった市場経済の歪みは、所得再分配で修正する。これが人々の分断を防ぎ、社会の安定に寄与していくのではないか。

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