1. はじめに
生物多様性の損失が国際的な課題として認識され、これを食い止め回復軌道に転じネイチャーポジティブを目指す動きが活発化している。ネイチャーポジティブには多額の資金投入が必要であり、資金調達策の一つとして生物多様性クレジットが注目されている。2022年12月の生物多様性条約締約国会議(COP15)で採択された「昆明・モントリオール生物多様性枠組」でも、2030年までの目標の一つであるターゲット19で、生物多様性クレジットを生物多様性の保全・回復のための資金調達手段の一つとして位置づけている。
ここ数年の間に、海外では多くの生物多様性クレジット制度が立ち上がり、国内でも今年度から環境省が検討会を立ち上げ、将来的なクレジット制度導入に向けた検討を始めている。そこで、本稿では生物多様性クレジットの国内外の動向と企業が押さえておくべきポイントを紹介する。
2. 生物多様性クレジットとはなにか
生物多様性クレジットとは、自然の保全や回復活動によってもたらされるプラスの効果を定量的に評価し、クレジットとして認証することで取引できるようにする仕組みである。取引を通して活動に対する資金導入が進むことで、ネイチャーポジティブに向け自然に貢献する活動の促進が期待できる。
生物多様性クレジット制度は、大きく2つのタイプに分けられる。1つは、義務として導入される制度で、自然に負の影響を与える活動に対し満たすべき基準が設定され、自らの取組で基準の達成ができない場合の最終手段として、他者が創出したクレジットを活用してオフセットを行う。もう1つはボランタリーな仕組みとして導入される制度で、創出されたクレジットは自主的な資金提供による自然への貢献を目的に活用される。クレジット制度の導入は企業にとってチャンスにもリスクにもなり得る。工場敷地や社有林などで保全活動をする企業等は、活動資金の調達手段としてクレジットを活用できる可能性があり、チャンスとなり得る。クレジットを購入した企業等は、積極的な自然への貢献姿勢を示すともに、創出元の活動が行われている地域の自然の向上に貢献することができる。他方で、義務として制度が導入された場合、制度対象となる自然に負の影響を与える活動(土地開発など)を事業とする企業にとっては、対応コスト増加のリスクが生じ得る。
3. 国内外で進展する生物多様性クレジットの検討状況
近年、海外では各国政府が生物多様性クレジット制度の開発を進めている。生物多様性クレジットを組み込んだ制度の例として、イギリスの「生物多様性ネットゲイン(BNG:Biodiversity Net Gain)」とフランスの「補償・修復・再生のための自然サイト(SNCRR:Sites naturels de compensation, restauration et renaturation)」が2024年から、オーストラリアの「Nature Repair Market」が2025年から本格的に制度運用を開始した。また、欧州委員会はネイチャークレジット制度*1の発展を進めるための計画をまとめた「ネイチャークレジットロードマップ」を発表しており、欧州全体としても制度導入が進んでいく見通しだ。加えて、民間主導の制度開発も進んでおり、カーボンクレジット制度の運営も行うVerraによる「Nature Framework」やPlan vivo foundationによる「PV Nature」などがある。
イギリスで導入されているBNGは、義務として導入される制度である。BNGは土地開発者に対し、開発前よりも生物多様性を10%以上増加させることを義務付けている。自らの開発地で基準を達成できない場合、他者が創出した生物多様性の価値を購入して埋め合わせることが認められている。オーストラリアで導入されているNature Repair Marketは、ボランタリーな制度である。自然にプラスの活動(在来植生の再植林など)の効果を評価し、証明書を発行する。発行された証明書を購入した者は自然への貢献を対外的に訴求できる。
生物多様性クレジット全体に関するルールの標準化の動きも進んでいる。イギリス政府とフランス政府によって設立された「生物多様性クレジットに関する国際諮問パネル(IAPB:International Advisory Panel on Biodiversity Credits)」は、生物多様性クレジットアライアンス(BCA:Biodiversity Credit Alliance)と世界経済フォーラムと共同でクレジットの信頼性や品質を高めるための標準化の検討を進めており、2025年5月に「生物多様性クレジット市場のためのハイレベル原則」を発表した。現状では、クレジットに求められる基準や取引方法などは制度ごとに検討されるが、徐々に統一的なルールが整備されていくと考えられる。
国内でも生物多様性クレジットの検討が進んでいる。環境省は、2025年9月より「生物多様性の価値評価に関する検討会」を開催し、将来的な生物多様性クレジットの導入を見据えた調査・検討を実施している。同省は2023年に生物多様性保全に貢献する区域を認定する「自然共生サイト認定制度」を開始し、翌年には自然共生サイトを支援する主体への支援証明書の発行を開始している。こうした既存制度の発展形として、生物多様性クレジット制度の導入が検討されている。2025年7月に同省が公表した「ネイチャーポジティブ経済移行戦略ロードマップ」では、2025年度中に生物多様性・自然資本の価値評価方法を整理し、2026年度以降にその方法の実証と、生物多様性クレジット制度を含む、評価結果を活用する具体的な制度検討を進めるとしている。また、国土交通省も、グリーンインフラへの投資を呼び込む手法の一つとして生物多様性クレジットに注目し、調査を実施している。
4. 企業は生物多様性クレジットの動きを踏まえて何をすべきか
企業は生物多様性クレジットの国内外動向を受けて、どのようなアクションを取れば良いだろうか。
1つには、生物多様性クレジットの国内外の動向を把握することだ。上述の通り、生物多様性クレジットの動きは国内外で進展しているが、国内では検討段階であり、すぐに制度が導入されるわけではない。そのため、まずは、環境省や国土交通省の検討状況や海外の標準化の動きなどについて情報収集を始めることが第一歩となるだろう。特に保全活動を実施している企業や自然への影響が大きい事業を行う企業は、将来的な資金調達方法としてのクレジットの利用可能性、または、事業リスクとなる可能性を想定するために、状況の把握が重要である。クレジットの需要や活用方法についても整理が進められているものの、現状では未成熟な状況だ。企業がどのように訴求し、自社の事業戦略にどのように組み込むかといった、活用方法など需要側の論点や動向についても注視が必要である。
もう1つは、制度の導入に先立って、生物多様性に関連するデータの収集を進めることだ。将来的に制度が導入されクレジット創出に取り組む場合には、生息する生物の種数や個体数など、活動に関するデータが必要になる。データは長期にわたり蓄積されていることが望ましく、また、データ収集体制の構築には時間を要するため、先を見越した準備が重要となる。
先進的な一部の企業は、データをモニタリングしたうえで、データを用いた評価方法の確立や試行的な評価を始めている。例えば、東京海上アセットマネジメント*2は藻場再生の取組の効果を評価する方法論を、大成建設*3は建設事業による生物多様性への負の影響や保全活動で生じる価値を定量的に評価する方法論を開発しており、いずれも将来的にクレジットとして活用することを想定している。政府による評価方法の作成を待たずに、既に運用されるクレジット制度の方法論を参考にして、企業自ら評価を進める動きもみられる。制度導入には時間を要するため、足下での活動の効果のアピールや保全活動通じた資金調達を図るには、こうした先駆的なアプローチは有効と考えられる。
5. おわりに
生物多様性クレジットは社会的に年々注目が高まっており、海外での制度導入や国内での制度検討が進む。企業にとっては将来的なチャンスにもリスクにもなり得るため、現段階では情報収集を進め、今後の見通しを立てておくことが重要だ。特に、保全活動などを積極的に進める企業や今後に活動を開始予定の企業、または、事業が自然に与える影響が大きい企業にとってはより重要度が高いと考えられる。将来に備えてデータ収集を始めることは有効であり、データ収集にとどまらず自ら評価方法を確立・実践する先進的な企業も出てきている。そのため、自社の戦略や事業特性を踏まえ、自社にとって最適なレベル・方法で取り組みを進めることが求められる。ネイチャーポジティブに向けた社会的な動きが加速する中、今後の生物多様性クレジットをめぐる議論の進展と、企業にもたらす効果や影響に引き継ぎ注目したい。
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*1生物多様性も含めた自然への効果を評価するため、ネイチャークレジットという呼称を用いるケースもある。また、クレジットではなく証明書などと呼ばれるケースもある。
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