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大正のパンデミック―スペイン風邪顛末記(1/5)

社会動向レポート

社会政策コンサルティング部 主席コンサルタント 仁科 幸一

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2020年の最大の出来事は新型コロナウイルス(COVID-19)のパンデミック(感染爆発)だろう。感染症のパンデミックの脅威は今に始まったことではない。欧州の人口の約3割の死者を出し、中世から近代への転換点となったといわれる欧州のペストの流行はその代表だ。

新型コロナウイルスの流行でにわかに注目されたのが、1918(大正7)年から1920(大正9)年にかけて世界的規模で流行した「スペイン風邪」である。英語では“Spanish flu”と表記される。およそ百年前のその時、何が起き、当時の人びとはどう対処したのか。

大正のパンデミック―スペイン風邪顛末記(PDF/2,673KB)

1スペイン風邪とは何か

(1)なぜ「スペイン」なのか

日本語でも英語でも「スペイン」という国名が冠せられるのは、スペインが原発地であることを意味するのではない。当時は第一次世界大戦の最中であり、インフルエンザの感染爆発は軍の行動に大きな影響を与えることから、各国で報道が規制された。このため、中立国であったスペイン発の報道が初出となったことに由来する。なお、日本では日常語では「風邪」「感冒」と「インフルエンザ」は厳密に区別されないことが多い(1)。こうしたことから、本稿では通例に則して「スペイン風邪」という表記をとる。

(2)どんな時代だったか

スペイン風邪の感染拡大は1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦末期に始まった。大戦は欧米諸国ばかりではなく、参戦国がもつ植民地に波及し、史上初の地球規模の多国間戦争となった。主戦場となった欧州では多くの一般市民を巻き込んだ。1918(大正7)年11月の休戦協定によって戦闘状態は終結した。

翌年1月にパリで講和会議が開会した。連合国を戦勝に導いた米国のウィルソン大統領は、平和を維持するためにはドイツに過大な賠償を課すべきではないと考えていた。ところが、ウィソン大統領は講和会議中にスペイン風邪を発症し、出席できなくなった間に、英仏両国が議論を主導して巨額の賠償を求めた。このことがドイツ経済の致命的な破綻をもたらし、後のナチスの台頭の引き金になったと米国の歴史学研究者アルフレッド・W・クロスビーは指摘している(2)

わが国は、日英同盟に基づいて連合国の一員として第一次世界大戦に参戦したものの、主戦場である欧州から遠かったため限定的なものにとどまった。むしろ、戦乱により欧州諸国の工業生産の停滞を埋める戦時特需が発生した。大戦景気は多くの戦争成金を輩出した一方で、産業の重化学工業化の端緒となった。

一方、大戦景気をきっかけにインフレーションが昂進し、好況によって生じた余剰資金が商品市場に流入したことも相まって、米価が急騰した。これが庶民層の生活を直撃し、全国で散発的に暴動や工場・鉱山労働者のストライキが発生した。これが1918(大正7)年7月の米騒動である。短期のうちに全国に波及したが、およそ2か月と短期間に沈静化した(3)

世情の不安定化から、当時の寺内正毅内閣総理大臣は辞表を提出し、立憲政友会総裁の原敬に大命が降下され総理大臣に就任した。これが衆議院第一党の代表が総理大臣に任命されるわが国で初の政党内閣である。当時は大正デモクラシー(4)の時代であり、米騒動や政党政治の成立も、こうした思想潮流の影響があった。

(3)どのように感染は拡大したか

記録に残る範囲で初めてスペイン風邪の集団感染が確認されたのは、1918(大正7)年3月、米国の陸軍基地である(5)。米国は1917(大正6)年に連合国の一員として参戦。当時の米国内の米軍基地は新兵であふれ、発症前の感染者が続々と欧州に送り込まれた。その後、集団感染は米国内の学校、工場、刑務所で相次いで発生した。

国や地域によってタイミングに差はあるが、スペイン風邪は収束までに3回にわたる波があった。英国の死亡者数をみると、1918(大正7)年7月に第1のピーク、次いで同年11月に第2のピーク、翌年2月に第3のピークを示し、5月に収束している(図表1)。


図表1 英国におけるインフルエンザと肺炎の複合死亡率の推移(人口千人対)

図表1

(出所)「1918 Influenza: the Mother of All Pandemics」(“ Emerging Infectious Diseases journal” 第12巻1号、Centers for Disease Control and Prevention:米国疾病予防管理センター)2006年


(4)連合国衛生会議の開催

第一次世界大戦の休戦協定成立後の1919(大正8)年3月に連合国衛生会議が開催された。同会議の決議から、当時の各国医療行政当局者の共通認識を読みとることができる。


図表2 連合国衛生会の決議(要旨)

図表2

(出所)内務省衛生局「流行性感冒」1921(大正10)年より筆者が要約


(5)全世界の死亡者数

死亡者数には諸説あり、2000~4500万人(6)とする説、5,000万~1億人以上(7)とする説がある。1920年の世界人口は18.6億人(8)と推計されており、人口の1.1~5.4%以上がスペイン風邪で死亡したことになる。この率を現在の世界人口である76.7億人(9)に乗じると、8200万人から4億1200万人に相当する。

(6)スペイン風邪の病原

当時、光学顕微鏡で視認できないウイルス(10)の存在は知られておらず、病原はもっぱら新種の細菌と考えられワクチンが開発された。病原を見誤って開発されたワクチンに薬効がなかったことはいうまでもない。

スペイン風邪の病原が細菌ではなくウイルスであることが確認されたのは1933(昭和8)年、鳥インフルエンザに由来するH1N1亜型であることが判明した(11)のは1997(平成9)年のことである。本来は人間に感染しない鳥インフルエンザウイルスが突然変異により人への感染力をもち、当時の人びとがこれに対する抗体をもっていなかったためにパンデミックが発生したと考えられている。

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